最強の社畜

最強の社畜
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俺は、とある建築資材のメーカーで働く、ごく普通のサラリーマンだ。

元々努力家だと自負しているが、実直に働く姿を、「最低の社畜」と侮蔑する者もいる。

 

笑いたければ笑えばいい。

自分では割と気に入っている。

 

俺には、この会社のトップ5%になるという夢がある。

 

だからこそ、「最強の社畜」となるのだ。

 

 

仕事が不満なら去れ

 



 

我々の業界は、コロナ禍以降のリフォーム需要に加えてウッドショックなども重なり、多忙を極めている。
お陰で、残業や休日出勤も当たり前で、確かに異常な仕事量だ。
そんな中、昨今の労働基準だのワークライフバランスだので、労働者の権利を訴えている連中も多い。

 

しかし、俺からすれば、それならさっさと辞めるべきだと思う。

会社に給料を貰っている雇われの分際で、甘ったれるのもいい加減にして欲しい。

自分の能力や貢献度を顧みず、経営者や上層部の胸中も探らず、そんな風に反論ばかり訴える連中が愚かしく見えてならない。

そもそも企業は、人材を囲い込み、労働力として搾取する場所だ。

優秀で高機能な労働を、なるべく低賃金で安定的に長期活用したい。そう言わずとも、恐らく本音だろう。

コスパの高さが求められるのは、人間だって同じだ。

 

その立場を奴隷だの家畜だのと比喩されたとて、安定と補償に有りつけるのは代え難い。

そのような仕事が嫌ならば、思い切って自力で稼げばいいだけだ。

まあ、稼げるだけの腕があればだが。

 

思い上がりの夢

 



 

そして、一時的に稼げたとしても安定的に継続できるかは別だ。

創業10年以内に、9割の企業は潰れるという。
生ぬるい思い上がった自惚れは、いつだって「起業・開業」を夢見るものだが、それが現実だ。

そもそも、会社の看板なしで、個人に仕事を依頼されるはずがない。
そこを捻じ曲げて、数字や成績を自分の実力だと勘違いする者もいる。

自分本位の能天気にも程があるだろう。

転職しても、組織という構造は同じであり、状況はさほど変わるはずもない。

 

長年経営を続けられている企業はそれだけでも優良だし、10年を越えると継続率がぐっと伸びるというデータもある。それは、並々ならぬ企業努力の賜物なのだ。

そういった勝ち組の社員になれたことを、なぜもっと有難がらないのか。

どちらにせよ、その恩恵を理解出来ず組織に順応出来ない者など、存在自体が迷惑なのだ。

 

「自信が無い」とか、「〇〇だから」と言い訳ばかりする連中も同じだ。

だったら、居てもらっては周囲が困る。

最初から過大な期待などされるはずもなく、地道な労働の対価として、賃金が発生してることを忘れないで欲しい。努力も勉強も足りないくせに泣き言をいう暇があれば、やれることをすべきだ。

逆に、メンタルや健康を害して離職するのは、競争社会のセオリーとして真っ当だ。

弱い者は、はじかれて当然。ビジネスは、福祉とは違う。

それが嫌だったら、心身の耐性を鍛えるしか道は無い。

俺にとってそんなものは、子供の頃から当たり前の事だった。

 

理想と現実

 



 

楽をして、安定した収入と生活を得る?

個性や能力に適した仕事で自己実現を果たす?

夢物語の理想主義も良いが、その実現性はどうなのだろうか。

言うは易く、行うは難しに決まっている。

そういった耳障りの良い風潮を作る政治家やオピニオンリーダーは、理想を掲げて「より良い社会にする」と標榜するが、それは大抵エゴイスティックな欺瞞に満ちている。

それが影響力を持ちたがる人間の本質だから仕方がない。

 

理想社会の実現は時間がかかる。

そう思って諦めるのが現実的だ。

そもそも、誰かの理想なんてものは、他の誰かにとっては無意味なものだ。

その中で、より確実性のある「目標」を立てる方が理に適っていると悟って以来、俺は不可能にはチャレンジしない。

時間と体力がいたずらに消耗するだけだからだ。

人生は有限。不毛な努力を避け、いかにして効率的に利を得るかに集中したいのだ。

 

貧しさを覆すために

 



 

俺は、貧しい長屋で育った。

両親は不仲で争いが絶えず、家の中はいつも殺伐としていた。

兄は素行が悪く、18歳で家を出て以来そのまま音信不通。

なぜそうなったのかは、家庭環境が複雑だったからだと思う。

一週間以上同じ服を着て、三食食べられることは稀であり、放課後や休日は家にも居られず公園の水を飲んで過ごした。

 

一度でいいから、お腹一杯食べたい。

一日でいいから、安心して眠りたい。

人としての最低限の生存欲求である、食べる事と眠る事にさえ飢えていたのだ。

しかし、誰も助けてもくれず、頼れる者も無い。

こんな環境から抜け出すため、俺は兄とは違う道を見出し、勉強することを選んだ。

 

労働サイボーグ

 



 

奨学金で進学し、毎日アルバイトをして金を貯め、空いたほとんどの時間を図書館で費やした。

推薦で有名大学に入ってからも就職に有利な資格を取り、氷河期の中でも今の会社に一早く内定が決まった。

勉強する事は、人生を掛けたサバイバルに他ならなかったのだ。

就職後もスキルアップに余念がなく、会社の方針に従順に従い、上司の期待に応える努力を惜しまなかった。

実直に成果を重ね、学閥、同郷、趣味嗜好、使えるものは何でも使った。

目指したのは、最も高機能で精密な労働サイボーグだ。

 

それに徹することは、無駄な抵抗感によるストレスを回避し、ネガティブな人間関係に悩まされる事から身を守れた。

家賃を払い、食費や生活費を払い、自立した人間らしい暮らしができるだけで十分幸福だと思った。

クリエイティブだとか新しいアイデアを見つける才があるという思い上がった連中からすれば、最も惨めな存在だっただろう。

周囲には、そんな生き方を軽蔑されたり、バカにされることもあったが、出世すればカーストが逆転するから気にしなかった。

むしろ、適当にやって遊んでいるような連中を、いつか部下にして鍛え上げるという野望にさえなっていた。

 

ハングリーなライバルたち

 



 

だから、自然とライバルはハングリーな連中に限られた。

アイツらは、目を見るとわかる。

顔は笑っているようでも、目だけはギラギラしているのだ。

表情を司る不随意筋は、自律神経に支配されているので意識的に動かすことは出来ない。

俺のように、いかなる状況も本気で笑っていられる特殊能力が備わっていなければ、どうしても不自然になる。

しかしギラついた目以外は、総じて従順で勤勉な態度に徹していて、恐ろしく要領が良い。

だから、警戒が必要なのだ。

水面下では、探り合いと駆け引きをしなければならないので、油断の許さぬ真剣勝負になる。

それは、バカにしてくる軽薄な連中などとは比べ物にならないくらいに心労の掛かるものだった。

 

とはいえ、そんな彼らとトップ5%を競い合い、やがては肩を組み合う関係になることも予想が付く。

最終的には、彼らとしか価値観は共有できないに決まっているからだ。

 

ブラック企業と淘汰

 



 

企業は、そもそも勝たなければ存在意義はない。

だからこそ、「ブラック企業」などというレッテルを、俺は「本気である企業体質」として歓迎する。

ハラスメントも過重労働も、生存競争の原理として甘んじて許容する。

ゆとり社会をあざ笑いつつ、俺はしたたかに駆け上がって見せる。

 

作れるだけ作って、売れるだけ売る。

それを求める者が居て、応えられる自分たちがいる。

そのために寝る間を惜しんで動き続けるのも、企業人として当然ではないだろうか。

 

それをこなして、飽くなき成長を遂げてきた戦後の日本が、ここへきて突然の「働き方改革」とは耳を疑いたくなる。

そんな甘い蜜を吸ってしまえば、淘汰されるのがビジネスの修羅場なのだ。

これを信じた企業がどうなるかは、今後明らかになる事だ。

そして、淘汰されて肥やしとなるのも、自然の摂理だろう。

 

上流階級との共存

 



 

しかし、そんな俺の鋼のハングリースピリットを逆撫でする者がいる。

何不自由なく、ぬくぬくと育った上流階級エリート達だ。

裕福な家に生まれ、温かい親の愛情に包まれて育ち、学歴も教養も身に付けた本物のサラブレット。

彼らは、そもそも何かに抗うことも競うことなく、泰然として俺を見下ろす存在だ。

 

何せ、心からの笑顔で接してくる器の大きさと、足るを知る余裕に満ちている。

そのくせ、そんな風に他者を認めて信頼し、一致団結してしっかりと結果も出す。

目標を達すれば、互いの健闘を称えて大いに喜び合う。

学問だけでは決して追いつくことが出来ない領域であり、人生の歴史に愕然とするばかりだ。

よくもそんな風に呑気に生きられるものだ。

 

彼らも会社から評価されている以上、チームを組んだらきっとあの価値観を押し付けてくるだろう。

抗わずにどうバランスを取るかが目下のテーマだ。

 

会社に魂を売った男

 



 

冷静に考えれば、俺が働いて手にしたものは安定した暮らしだ。

その中身は、すべて金で買える物。

貧しかった過去を清算するように、俺は「物」に固執している。

安定した衣食住を維持するためなら、土下座だって抵抗なく出来るだろう。

そんなものは、所詮ポーズとしての行為にしか過ぎず、実益の無いプライドなど無意味極まりない。

それで失敗やクレームが清算されたり、相手が納得するのならば簡単な事だ。

土下座にかかるコストは0円なのだ。

 

「会社に魂を売った男」と、揶揄されたことがあるが、そもそもそんな表現自体を陳腐に思う。

“魂”なんぞという実体のないものを信じて、何の価値があるというのか。

愛とか信頼、友情?そんなものは、言葉遊びに過ぎず永続的ではない。

何らかの行為を、綺麗な言葉で意味付けして喜んでいるだけだろう。

苦し紛れに夢物語に逃げるのも弱い人間の性だ。

 

 

しかし、ふと自分に問う時がある。

俺の幸福は「物」のみによって満たされるのか?

物と安定さえあれば、悔いのない人生だと言えるのか?

今の業績も決して安泰とは言えず、用済みとなれば当然お払い箱になるだろう。

どんなに頑張っても、働きアリは使い捨ての駒に過ぎないのだ。

 

見ないようにして強がることは、決して賢いとは言えない。

…問題はそこにある。

 

貧しくとも笑顔の隣人

 



 

単なる衣食住の充足は、数年で飽きが来た。

高価な食事やふかふかの羽毛布団も、初めの頃の感動はもうない。

どうやら人間に必要なものが他にあるらしい。

それは人間のみならず、哺乳類の原則のようだ。

 

人と接して親しみ、夫婦や家族を作り、あるいは友情や連帯を育んで集団を形成する。

それは単純な、種の繁栄のプログラム。

草木や果実に種があるように、動物にも共通した原理だ。

自然界では孤立すれば、やがて絶滅が待っている。

 

頭では、滅んでも痛くもかゆくもないが、腹が減って眠くなるように、俺の細胞は生命を維持しようと働き続ける。

仕方なく生きるよりも、より良く生きようとするのも本能なのだろう。

面倒だが、そこで他者との親密な交流が不可欠となる。

 

同じ長屋に、仲の良い家族がいた。

彼らは、貧しくともいつも楽しそうに笑い合っていた。

それを不可思議に思いつつ、羨む気持ちも否めなかった。

 

家族に縁が無く、むしろトラウマさえ感じている俺には、かなり困難なハードルだ。

 

生い立ちに拘束されている

 



 

そもそも、俺にとって他人とは2種類に分類される。

危害があるか否か。

益があるか否か。

その2点以外は、容姿の好みが多少影響するだけだ。

 

そもそも、人となるべく関わりたくないので友人など作らない。クラスメイトも同僚も、何かを遂行するための歯車としての関係だ。

また、これまで彼女と呼べた数名の女性は、若さゆえの同じ境遇の傷の舐め合いと、まとわりつかれて依存されただけだ。

苦々しいだけで、うんざりする記憶ばかり。

 

これは、まずい。

あの両親による影響が、俺の人生を拘束しているのか…。

俺は…、疑い、罵り、否定し、争うことだけを延々と見せられてきた。

それから脱却するために、勉強し、働いてきたが、得られたのは物と安定だけだった。

 

両親を見て、あんな風にはなるまいと心に誓った。

避けたいものは明確だが、しかし、どんな人物と、どのような交流を持てば心が満たされるのかは分からない。

人間は、どうあがいても無機質な機械にはなれないのだ。

遺伝子と成育環境に影響を受けざるを得ず、プログラムの書き換えは容易ではない。

 

俺はもう、このまま老いていくしかないのか……。

 

 

 

心当たりがあれば、心理相談を。

 

 

※個人が特定できないよう、情報を加工しています。

 

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