カウンセラーは病んでいる

カウンセラーは病んでいる
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「カウンセラー? へぇ~……」

 

この仕事は、ある種のネガティブイメージで見られることは仕方がありません。

お会いしてしばらくすると、普通に「なんでこの仕事に?」から始まり、「大変でしょう?」と続き、やがて「自分が貰っちゃわない(うつっぽくなったり、落ち込んだりしない)ですか?」に繋がることが多いです。
メンタルの問題を抱える方に深く関わるので、そういうものがまるで伝染病のようにうつるのではないか?ということでしょうか。

 

悩み事を聴くのが負担になるか?

実際に同業者の方と話したことがありますが、「ある」と「ない」に分かれました。
「ない」と答えた方の割合が多いのですが、「ある」と答えた方の言い分としては、「それだけ本気で向き合っているから」とか、「重篤なケースを扱っている証だ」とか、「大勢の人が来る多忙な相談所だから」など、様々です。
一理あるでしょう。

A,ホックシールドは、その都度感情を演出しなければならない職業の事を「感情労働」と呼び、第三の労働形態だと言いました。

援助職に限らず、医療や福祉、教育、サービス業など、様々な顧客対応が求められる職業はすべてこれに該当します。

こちらにどんなに困り事などがあっても、相手がどんなに失礼な態度であっても、笑顔で親切な対応が求められるので、ストレスにさらされることになるのです。

過度に疲弊すれば、バーンアウト(燃え尽き症候群)へと繋がります。

当然、援助職は、苦しんでいる相談者を前にしているので、どのような態度や表情が求められるのか、常にモニタリングする必要があります。

そして、心理的外傷(トラウマ)をケアする側には、STS(二次的外傷、代理受傷、共感疲労)が起こることが知られています。

 

私の周りにも、うつ病になった方や、自律神経失調症になった方がいらっしゃいました。
そして、大学の先生方になると、どうやら、「事例、ケース」として見ていて、学術の発展のための研究対象とすることが先行するのか、ほとんど「ない」に集中していました。
ある先生は、外科医が血だらけの大手術後にレアステーキを食べられるのと同じことだと言います。様は、次第に意識を切り替えることに慣れるのだと。

こちらも一理あります。
これを「冷たくて、非人間的だ」とする向きもあるでしょうが、私はプロとして当然かとも思います。

 

人助けに存在意義を求める人々

仕事でやっていることに精神的に没入し、その悪影響を受けるなど、ミイラ取りがミイラになることです。
ミイラになっている間に、その人を信じたクライアント達が困窮することは目に見えています。
仕事に誠心誠意当たっているという理由で自分が病んでしまうのならば、今すぐ現場を離れるべきです。
不誠実だとは責めませんが、恐らくはその仕事にまだ慣れていらっしゃいません。

カウンセラーの前提として、ある種の苦難の過去だったり、機能不全家庭、コンプレックス、アダルトサバイバー傾向などを持ち合わせているものです。
苦しく辛かった時代を経験したから、救いを求めどうにか乗り越えようとして心理学とかスピリチュアル、精神世界的なものに関心を抱くことは良くあることでしょう。しかし、そういった自己分析や自己肯定の再構築が出来ていないと、いつまでたってもクライアントの人間性や感情に入り込み過ぎ、あげくに巻き込まれてしまうのです。

自分を必要としてくれている誰かをケアしている、という充足感で自分の存在意義を確かめているようで、見ていて実に危ういものがあります。
まるで、寂しい者同士の共依存関係のようなものでしょう。



 

対人援助職でも、福祉、看護業界には、この手のタイプがとても多いのです。
実際にカウンセラーの研修などに参加すると、辛い過去を生きて来られた方が大勢いて、皆さんのお話を伺っているうち自分がいかにマシな家庭環境だったのかを思い知らされました。

 

実力無き権威や自称だけのカウンセラー

国家資格を必要としないことから、実力の伴わない「自称カウンセラー」は、世にはびこっています。

あるいは学校を出てすぐに現場に出ている臨床心理士や公認心理師で、人生経験の少ない先生は大勢います。
彼らの特徴として、自分のポリシーや方法などにヒステリックな、あるいはいい加減な主張があり、客観性や論理性が乏しいのが特徴です。
疑問に感じたことを、あれこれ指摘すると顔色が変わり、ほとんど冷静な話し合いという雰囲気ではなくなるのです。

こういった点から、カウンセラーのセルフケア、自己点検の問題は、相当重要視されるべきポイントだと思います。

徹底して自らを見つめ、肯定的に扱う。
それなくしては、自分に確固たる自信は持てません。

 

かくいう私も、初心者の頃は家に帰ってからもその日の担当した方の状況を思い返しては頭を抱えていました。
「どうすればよかったんだろう…」
「なぜ、あんな症状が出るんだろう…」

「なぜ、変化が起こらないんだ…」

そうやって、振り返り、悔やみ、反省し、いつしか自分を卑下し、追い込んでしまっていたのです。

「俺は、ダメな人間なんじゃないか…」

出来ることなら、前世とか育った環境とか、はたまた目に見えないもののせいにしたいと思ったことだってあります。

つまるところ、伝統的な催眠とかNLPとか、科学的根拠に乏しくさほど効果が望めないものに傾倒していたせいかも知れません。しかし、好きで未熟だったわけではなく、より高い技術の存在を知らなかったからなのです。
そんな状況が何年も続けば、もしかすると病んでいたかも知れません。

 

専門職者こそ、「本物の技術」によって救われる

では、どうやって切り替えていたかといえば、とにかく自分の仕事に自信を持てるように努力することでした。
願わくば、いつでも、どんなケースでも、安定的に結果を出したいと思ったのです。
そして様々な技術を学び、ようやくデータ的根拠と実証を兼ね備えるものに出会えました。

「これで、自信をもって悩める人の援助が出来る」

お陰で、現時点では自分の仕事の内容で不安をおぼえたことはありません。
自惚れでも何でもなく、技術力に救われたのは、何よりも自分自身だったのです。

これはどなたにも言えることですが、もしあなたが自分自信や自分のお仕事に心から胸を張れないなら、お客様の期待を欺いていることになります。
「この人は、こんな中途半端な自分を選んだんだ…」
それはとても後ろめたいことなので、自分に嘘が付けなくなって次第に心を病んでいくのです。

同じ働くなら、どんな仕事でも極めるべきなのは、こういった心理的な理由があります。

誰かの役に立てない仕事は、自分の役にも立たないという道理です。

ただし、何事もバランスが重要で、これが過ぎれば「もっと良い仕事を!もっと結果を出すんだ!」という仕事依存の迷路に陥るかも知れません。

 

メンタル職のメンタルケアの重要性

私は元々オタク気質でもあり、そうなるのは当然でもありました。だから、自己分析を基に、日々のストレス解消として、趣味だったり誰かと会うようにしていました。
そうです。「人」という字のごとく、互いに支え合って…。

それが違うんです。
彼らは全然支えてなんてくれなかったんです。ある人物は、ただ、こちらの気も知らずに、「呼ばれたから来てやった」くらいの態度なのです。

そもそも人付き合いが苦手で友人が少ないのですが、そんな時だけ連絡を取ったもので、向こうもちょっと迷惑そうでした。
外出する気も起きなかったので、家に呼んでビールと適当な出来合いのつまみを出しました。
それを思いっきりブツブツ文句を言いながら、最近聞いてる音楽の事や自分の話ばかりして、バカみたいに笑って飲んでるんです。
…何てデリカシーがない人間なんでしょう。
しかし、それが自分にはちょうど良く救いになった気がします。
同情されても、一緒に思い悩まれても迷惑です。
結局は他人事。どうやったって、共有なんてできるものじゃない。だったら、そこにいてくれるだけで十分でした。
だけど、俺は一人じゃないんだな…。そういう細やかな安心感だけです。
多少の寂しさは否めませんが、所詮、そこまで相手に期待してませんでしたから落胆もありませんでした。
次回は、こちらが呼ばれる番かも知れませんし、お互い様です。

 

とにもかくにも、こういった作業で、ギリギリの精神均衡を保っていたのです。
しかし、これがあると無いとでは大違いだったでしょう。

何をお伝えしたいのかといえば、何かを一生懸命に行えば疲れるし挫折もする。積もり積もれば精神的に追い込まれて病んでしまいかねない。
だからメンテナンスが必要だ。

メンテナンスの方法は人それぞれだが、出来るなら「酒、ギャンブル、異性、ゲーム、ドラッグ、カルト教団、買い物、お祭り騒ぎ…」などよりも、より身近で健康的で手軽なものがお勧めだ、という事です。

 



 

中でも、気兼ねない関係性の中で過ごすことが一番ではないかと思います。

 

ちなみに、今でも彼のことは良い意味で“悪友”と呼べるのかもしれません。

 

 

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