多重人格に守られた女性 ~解離性同一性障害

多重人格に守られた女性 ~解離性同一性障害
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あの子は、いつも泣いている。

あの人は、優しく見守ってくれる。

あいつは、冷酷で残虐な悪魔。

 

…そのどれもが、もう一人の私だ。

 

人格交代と健忘(記憶喪失)

 



 

時々、ドラマなどで描かれる『多重人格』ですが、これは古い名称で、正確な病名は解離性同一障害(Dissociative Identity Disorder:DID)と言います。

症状としては、人格が複数に分離したようになり、別人格時の記憶が無かったりするのが特徴です。

もちろん、通常は医師との連携が欠かせません。

解離の軽いものでは、何かに集中していて名前を呼んでも気付かないなどがありますが、苦痛が伴って日常生活に支障が出る場合は精神疾患に類型されます。

欧米の調査では、90%が小児期にひどい虐待(身体的、性的、精神的虐待)やネグレクトを受けており、親や近親者との死別や重病など、何らかの強いストレスを経験していました。

過去の苦い経験などを「消したい記憶だ」などと言いますが、その経験が壮絶を極めると本当に現実となり、その穴埋めのように新たな人格が生まれてしまうのです。

 

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの、『ジキル博士とハイド氏』は、二重人格を題材とした有名な小説ですが、ダニエル・キイスによるノンフィクション、『24人のビリー・ミリガン』も、当時大きな話題となりました。

実在するビリー・ミリガンは3人の連続強姦と性的暴行および強盗を犯しますが、その後の精神鑑定によって別人格による犯行だったと分かり、無罪になります。

彼もまた、父の自殺と養父による身体的、性的虐待の被害者でした。しかし、犯した罪の重さが変わるものではありませんし、次の被害者を防ぎ、同じ症状に悩む人たちの理解や保全に繋げる必要があると思います。

 

彼らは、時には数分で、表情や態度、言葉使いなどがまったくの別人のような人格交代を度々起こします。

当然、演技ではないかと思われるかも知れませんが、私が感じたのはそのレベルを遥かに超えた変容ぶりでした。しかも、特に演技の訓練も受けていない一般の方なのです。

 

「私は、山口県出身で、高校までは地元におりましたが、現在は大学に通いながら都内でアルバイトをしてお…り…、ま……。」

(俯いて、しばらく沈黙)

「つぅ…、…何だこれ。…何なのこれって。」

『おお…、まるで、男性のようだ。これが、人格交代…。』

「は…、はじめまして…。」

 

初めて担当した時の衝撃は忘れることが出来ません。

 

可哀そうな「あの子」

 



 

そして、私が出会ったこの傾向を示すクライアントさんは非常に稀であり、100%女性です。また、その全てが虐待を受けた成育歴を持っていました。

ほとんどが、父親か義父による性的虐待の被害者です。

余りにも辛く苦しい地獄のような時間が訪れる度に、彼女たちは自分自身を守る為に、肉体から心だけを遊離させます。

そして、苦しめられているのは自分ではなく、「あの子」として外在化するのです。

虐待ではなく、もはや拷問のレベルだから、そういった自衛本能が働くのだと言われています。

 

「また、ひどい目にあってる…。可哀そうに…。」

度重なる絶望は、様々な感情を巻き起こして別の人格を次々と生み出します。そして、その時の記憶を消し去るのです。

 

「ぼくジュン。6歳だよ。」

「わたしはレン。えーっと、18歳。」

「っせーな…、コウジだよ!」

 

彼女たちの多くは、被害者であるにも関わらず、「〇〇な自分が悪い」と考えています。

苦痛を外在化して記憶を消すのも、一方的な暴虐を宿命のように捉えてしまうのも、何とかして心を壊さないための防衛手段なのでしょう。

彼女たちがまだ幼い頃、周りの大人から一方的に暴力や暴言を受け続け、ボロボロに傷付いた結果、PTSDや解離性同一症、愛着障害になってしまうことも想像に難くありません。

 

「自分は、愛される価値は無い」

「自分は、生きる価値も無い」

「自分は、存在してはいけない」

 

そのような葛藤を抱えながら生きていくことは、あまりにも残酷な試練です。

 

そして、実際の面接には加害者になり得るDVや幼児性愛(ペドフィリア)傾向の方も来られます。彼らもまた、偏った成育歴による深刻な苦しみを抱えており、被害者→加害者→被害者…という悪循環を止める必要性を強く感じます。

もしも身近にいる子供が、「幽体離脱が出来るんだよ。」とか、「昨日のことは何も覚えてない。」などと言ったら、注意深く話を聴いてあげてください。もしかすると、彼らからの「助けて」というサインかも知れません。

 

2種類の特徴的な人格

 



 

ビリー・ミリガンのような十数名に分離するような方には出会った事がありませんが、お話を聴くうちに、複数のキャラクターの中に共通する「2つの人格」がある事に気付きました。

1つは、暴力的な「怒り」を表現する人格。いわゆるボスキャラで、抵抗や批判が激しかったり、態度や言葉遣いなども威圧的です。

もう一つが、幼くてか弱い「甘え」を示す人格で、泣いたり駄々を言ったりして何かと混乱させる存在です。

これは、人間の根源的な感情の表出だと思われます。

 

生まれて間もない幼児が、「抱っこして」「お腹が空いた」「眠いよ」といった要求を訴えるのは当たり前です。そうやって保護される事を学び、周囲への信頼感を抱くのです。

それに対して、「よしよし」「ごめんね」と、受け止めてくれる事もなく、その逆に「うるさい!」「黙れ!」と非難されていたらどうなるでしょうか。

まして、生き地獄のような拷問を受け続けていたとしたら…。

 

「お母(父)さん…。ねぇ、聞いて…。お願い……。苦しいよ…。」

「お願いだから…、もうやめて。辛いよ…。やめてよ!」

「なんでよ!何で分かってくれないの!ふざけるな‼」

 

正当な「甘えたい」「守られたい」という気持ちが満たされず、その不安や恐怖が、やがて、「何で!」「どうして!」という怒りに変わっていくプロセスがご理解頂けるでしょうか。

甘えと怒りは、このように表裏一体なのです。

そして、このエネルギーは強大なので、時として自分自身や周囲を翻弄します。

彼らは幼い頃に、人として必要なものを欲していただけなのに…、手強くもとても悲しい存在だと思います。

 

その人格は、命の恩人

 



 

分離した人格を統合する必要があるという理論がありますが、決して一筋縄ではいきません。タイミングを逸すれば、強い抵抗を受け、むしろ長期化してしまうことも考えられます。

全ての人格には、「必然性」があり、「生まれるべくして生まれた背景」があります。

誰も、好きでこの症状を抱えているわけではありません。

ですから、まずは徹底して全人格を肯定し、労い、受け入れる必要があると思います。

 

彼らは、主人格を苦しめたいわけではありません。むしろ、命懸けで守ろうとしているとも考えられます。

ある人格は、優しく愛されることの大切さを伝える無垢な存在。

ある人格は、激しく闘争心を抱いて守ってくれる守護者。

またある人格は、全てを俯瞰してバランスを取ってくれるリーダーです。

出来るなら、その恩人たちを疎んじるのではなく、敬意を持ってほしいと思います。

その気持ちが伝われば、きっと彼らも報われるのではないでしょうか。

 

「あなたがいたから、私は救われ、何とか生きてこれました。」

「あなた方は全員、私を支え、励まし、守ってくれた恩人でもあります。」

 

「私は、あなた達に心から感謝しています。」

 

その役割を終えれば、おのずと存在意義も全うされます。

この病気は、発症過程も症状も千差万別です。未だに自己暗示や仮病、幼児期のイマジナリーコンパニオン(イメージ上の話し相手)の類いだという議論もあります。

確かに、各人格に矛盾点があったり、寂しさや孤独を埋めるような疾病利得を思わせる例もあります。

どちらにせよ、決して手の打ちようのないものではなく、短期解決の事例は沢山あるのです。

 

自分を大切にするということ ~自己肯定感とは

 



 

ある方は、虐待が刷り込まれたように、「こんな自分なんて、消えてしまった方が良い」と嘆かれていました。

痛めつけられた自分を嫌悪し、惨めで忌々しい記憶諸共に抹殺しようという試みは良くあります。

過酷すぎる人生を悲嘆したくなるのは当然です。

 

しかし、こうなった責任はその人自身にはありません

まして、子供ならば抗えなくても当然のことです。

たとえ他人があなたをどんなに傷付けたとしても、同じように自己虐待する必要はありません。

誰が何をしようと、何と言われようとも、自分自身を大切にするという権利があります。

自分の価値は自分で決めても良いと意識することが、自己肯定感に繋がると思います。

出来ないことも未熟な部分もあるし、不幸も絶望も人一倍味わったかもしれない。間違いや迷惑を掛ける事だってある。それが人間です。

しかし、だからと言って全人格を否定されるいわれはありません。

「自己肯定感」は心理学用語ではなく、決まった定義はありませんが、要するにあるがままの自分に「I’m OK(私であっても良い)」と感じられる事を言うのでしょう。

 

こんなに苦しい経験をしても何とか頑張っている自分自身を、一体誰に任せれば良いのでしょうか。

実際に、いつか誰かが救い出してくれるのでしょうか。

他人に委ねる限り、相手に依存的になり、最後は「結局分かってくれなかった…」と失望することになりがちです。

その苦しさを本当に理解できるのは、その人自身しかあり得ません。

 

「自分は、愛されて生きる価値がある」

「自分は、生きていても良い」

 

そう決めるのは他の誰かではなく、自分自身なのです。

 

バリ島の神懸り少女

 



 

かつて、神々の島と呼ばれるバリ島のウブドという村の寺院で、「ケチャ」という舞踏とも儀式とも言えるものを見ました。

それは、地元の人に「観光化されていない本物が見たい」と言って紹介された神聖な場所でした。

 

焚き木の灯る夜半、百数十名の上半身裸の男たちが輪になって座り、一斉に「チャッ!チャッ!チャッ!」という奇声を、猛烈なテンポで発します。

途中、体を揺らしたり両手を高く上げて激しく震わせたりたりしながら、次第にリズムが轟音のようになっていきます。

神秘的な雰囲気に包まれ、聞いている方も次第に意識がボーっとしてきます。

そこへ、美しく着飾った10歳にも満たないような少女が登場し、輪の中央で可愛らしく踊り始めます。

しばらくすると、彼女はトランス状態となったかのように目を閉じて動かなくなり、再び目覚めたかと思うと目がカッと見開かれ表情が激変しているのです。

その身のこなしはまるで別人となり、神懸ったような妖艶ささえ醸し出しています。

リズムが激しさを増し、グルーブが作り出す異様な空間の中、恍惚として踊り狂う少女の姿は神々しさを放っていました。

 

やがて場の興奮が頂点に達したその瞬間、一気に静寂が訪れます。

少女は気絶したようにバタッと卒倒し、待ち構えていた周囲の大人に支えられました。

目覚めると、元の幼さに戻ってぼんやりとしています。

長い夢から目覚めて、今までのことは全て忘れたかのようなキョトンとした表情です。

それは、彼女の身体に神が憑依していたと感じさせられる瞬間でした。

 

あれは、演出であり、お芝居だったのか…。

それとも、儀式を通じて人格交代が起こっていたのか。

はたまた、エンターテイメントを素直に楽しめない自分の悲しい性なのか。

 

信じるか信じないかはあなた次第です。

 

 

自分を大切にする気持ちになれなかったり、少し力を借りたい時は心理相談を。

 

※個人が特定出来ないよう、情報に配慮しています。

 

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