信念を曲げないという傲慢さ

信念を曲げないという傲慢さ
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私は、ただ走っていた。

走らされていたわけではない。

走るのが好きだったのでもない。
理由は見つからないが、走ることしかできなかった。

そんな私を、誰もが愚か者だと笑った。
でも、走り続けるしかなかった。



そして、いつしか人々の先頭を走っていた。




思想の自由と偏見







人それぞれ、「大切にしているもの・すべきもの」があると思います。

命、家族、仕事、財産、仲間、趣味、正義、誇り・・・。

それは、その人が何を価値あるものだと信じているかということで、個人の自由であり権利です。
より身近な日常的なものでいえば、趣味や嗜好、考え方などの価値観は十人十色であり、個性が尊重されます。

心理援助の場面では、この信念や思考といかにして交流するかが極めて重要になります。
むしろ、これ無くして何も進まないと言っても過言ではないでしょう。


「私は、自然が好き」
「俺は、車が好き」


「思いやりが大切」
「誠実であるべき」


「神の教えに従いたい」

「楽しく遊んで暮らしたい」


法的には、「憲法19条、思想・良心の自由」によって保障された民主主義の前提となるものですが、それは一般社会での生活においては建前のようなもの。
多様性の時代とはいうものの、公序良俗とか世情、コンプライアンスなどで規定されており、法に触れなければ何をしたってかまわない、どんな考えを持っても個人の勝手、とはいきません。
良しとされない、または嫌悪される価値観には誰もが否定的な意見を持つでしょう。

職業ともなれば、
教育より安定性を優先する公務員教師
陰謀論の医師
北側を支援する自衛官
などは言うに及ばず、一般的にも、「〇〇らしくない」とか、「〇〇なのに問題だ」など、見た目や印象でその人をジャッジする偏見はあると思います。

心理職者は、来談者が一般常識やモラルからは逸脱してたりしても、最大限の関心を向けることが求められます。
すなわち、どんな話や価値観にも共感的に傾聴することが素晴らしいという定説があり、そうでなければ「問題のあるカウンセラー」という判断をされます。



「良い社会」の同調圧力







マスコミやSNS、情報メディアは、「これこそが正、美、善だ」と訴えます。
このような認知バイアスは数百種に及び、見聞きしてきた何から何までが実は固定観念で縛られていながら、何の疑問も持たずに生活しています。

すると同時に、抵抗感を持つ人が出てきて、「私は絶対に従わない」「自分のポリシーを曲げない」などという反対派が現れるものです。
大変意志の強い、芯のある考えなのですが、それが容認されると、「じゃ、私も!」「俺も!」「自分だって!」と、なし崩しになるかもしれません。

誰もが、主義主張を訴えていると世の中は上手くまとまりませんので、国家などは〇〇主義といったイデオロギーや法で括られます。
そして、多数決の世界では、マジョリティの同調圧力に大きな力があります。

強固な信念やポリシーというのは、時には頑固、傲慢、エゴイスト、自己中ともなり得るのです。
協調性が問われる社会においては、不協和音となって非常に迷惑な存在にもなるでしょう。



マイノリティという異端



何の関わりもない人が何を考えていようがさほど影響を受けませんが、身近であればそうはいきません。

対立が顕著に表れるものとして、比較的距離の近い関係性があります。
最たるものが「職場や学校」です。
この閉じたコミュニティの中で、個を主張したり、あれこれと抗議を訴えているとどうなるかは想像が出来ることだと思います。

どんなに能力や知性が高くとも、社交性や対人スキルが低ければ、鼻につくだけだったり煙たがられたりするでしょう。
少数派マイノリティの意見を汲み取ろうとする動きは、差別的な扱いを受けてきた人々の歴史の証明ですし、それだけ自由と平等の矛盾は根が深いものだともいえます。

その訴えがいかに正義に適った主張であれ、命がけで守りたいものであれ、説得力が欠けていると単なるノイズともなります。
逆に、「偏見は悪だ」と決めつける側を「それこそが偏見だ」というブーメランもあるでしょう。
社会やルールがどうであれ、その流れに乗って生きることを良しとしている保守側からすれば、波風を立てることは悪でしかありません。



価値観を否定し合うのも自由







このような自分を曲げられない方々の相談に乗ってきましたが、残念ながら大抵は周囲も疲弊していたり、何らかのネガティブな状況に陥っています。

「迷惑だ」
「面倒くさいやつ」
「うざい」
「気味が悪い」
「勘違いしてる」

「どんなものに価値をおいても、何が好きでも、逆に何が嫌いでも、他人からあれこれ言われる筋合いはない。」
あなたがそうであるように、相手にもそれはあります。

「あなたの信念や主張を真っ向から否定し、嫌悪します。」
これも、個人の自由です。

従って、強い主張には強い批判がつきものなのです。



人間らしさは、醜くて尊い



何事も腹に収めて辛抱できれば大人で、感情的になって取り乱せば幼稚。
しかしながら・・・、
何も主張せず、自分を押し殺して周りに同調するだけでは息苦しくもなるでしょう。

複雑な事情があったり良くも悪くも成育歴が著しく偏っていれば、なかなかバランスが維持できなくなるかもしれません。
我慢や忍耐を強いられてきた人ほど、その傾向がみられます。
また、自閉スペクトラム症(ASD)や強迫性障害、発達障害などでも、強いこだわりや自分のルールに固執するという側面がありますので、必ずしも考え方や性格によるものではないケースも留意すべきです。

親や保護者から承認されず関心を向けられなかったような人は、無視されたり軽視されることを極端に嫌がる傾向がありますが、それをバネにして活躍する人がいる一方で、それを軽蔑する人もいます。

それにも耐性がついたり、堂々と動じない胆力を得る方もいますが、限界も時間の問題という場合も多く、気付いた時にはすでに周囲との関係性が破綻していたりします。


私たちは、子供のころから勉強やスポーツ、社会に出ても暗黙の了解のように勝敗を決められます。
分かりやすい勧善懲悪の筋書きを、繰り返し聞かされます。

弱音を吐いたり、失敗や負けを認めたりするのは悪いこと
媚びへつらって、意思を曲げて流されるのは情けないこと


ちょっとした意見にさえ、バッドボタンが押し寄せるような世の中です。そんな競争や疎外感に嫌気がさし、キャパオーバーを迎えたマイノリティたちがコミュニティを作るのも自然ですし、少数派だからこそ立ち上がり、声高に訴えるのも当然です。
徒党を組むとカルトっぽく見られがちですが、彼らにとっての居場所にはなり得るでしょう。

立派な信念もプライドも、他人からみれば単なる固執した意地にすぎません。
意地を通せば争いや敵対視となるばかり。

革命や戦乱の英雄は、非業の死を遂げて伝説となり美化されることもありますが、その後の世界に満足しているかは本人のみぞ知るです。

何かに価値を見出し、それにすがるしかない愚かしく未熟な存在。
それが人間らしさだともいえますが、これを愛すべきか否か・・・。



意味付けは自由







短期療法には、物事を多角的に見ることが求められます。
決め付けや偏見を脱し、あらゆる視点から肯定的なポイントを見つけます。

幼少時から偏った情報に晒されてきた人は、自分がいかに不自由かを知りません。
嫌、「自由が良いもの」という認識がない、あるいは疑っている場合もあります。

こういう事情がある方に、認知に歪みがあると断定することもなく、説明も説得もなく、むしろその考え方や意味付けを利用できないかを探ります。

とはいえ、私の思い込みで、苦難を経験し乗り越えてきた人の多くは、卓越した能力が備わっている、というものがあります。
科学的根拠もありませんし統計も取っていませんので、単なる幻想です。

しかしながら、この幻想を基にしなければ見えてこないものがあり、これまで対人援助にはとても役立っているのも事実なので、手放せません。

〇〇だからこそ、この人は素晴らしい。
〇〇という経験が、この人を成長させた。
〇〇しているのは、この人の優しさだ。


など、本人ですら自覚していないポジティブさが、ありありと浮かび上がってきます。
そして、よくあるのが絶対的な悪だと見なされてきたものが、実は素晴らしい美点だったというような発見です。

逃げても、負けても、情けなくても、非難されても、嫌われていても、〇〇だ。

無理にこじつけているように感じられるかもしれませんが、その瞬間、固定観念が激変するパラダイムシフトが起こるのです。
それはいつも、カウンセラーとして胸躍るような時間です。



傲慢は美点、という仮説



個人的な話をすると、私は大学を中退し、友人の少ない時代遅れの音楽が好きな男ですが、何の経歴も無く心理職を目指しました。
いまだに病院や学校にも勤務経験が無く、学会発表も論文も、1冊の著書さえもありません。
個人で細々とやっているだけの、うさん臭く怪しい野良カウンセラーだと言われ続けてきました。

しかし、それはその人の価値観です。
経歴や肩書を重視するという、その人の自由です。

落ち込んだり自戒することもありますが、それらを鵜吞みにする訳にもいきません。
怒りも否定も疲れますし、反省したり参考にしたりしつつ糧にするしかありませんでした。


じゃあ、どうすればもっと良くなるか。

色々と思い悩むこともありましたが、その一点に集中することは有益だったと思います。


事実として、あなたが本気で取り組むことを、侮辱する人がいます。
あなたが大好きなものを、全否定する人がいます。
そして、あなた自身を嫌い、必要が無いと思う人がいます。

残念ながら、仕方がありません。

他人から評価されたり好かれたりなんて滅多なことではないと自覚し、自惚れないのが一番。
理解されるなんて、そもそも思い上がりだとなじられます。
一方で、それを否定しない人もいるでしょうし、さらに、そんななたを大切にしてくれる人がいるかもしれません。

100%の孤立など非現実的です。


勘違いでも幻想でも構わない。
自分にしか出来ないことがある。
自分を必要とする人がいる。


そう信じるのは傲慢でしょうか。




大切にしていたものが信じられなくなったときは、心理相談を

記事を書いた人 Wrote this article

Kondo

短期間で改善を起こす、ブリーフ・サイコセラピー派の心理師。 あらゆる問題の解決事例を持ち、超合理的に結果に導く。 臨床から産業、教育分野まで、幅広い実践経験を持つ。 専門家からの相談を受けるマスター・カウンセラーである。

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