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恥と誇り
恥をかくと言うのは、とても勇気のいることです。
子供の頃から勉強やスポーツと言った競争の中に置かれ、暗に「勝つ事」や「正しい事」を強いられているので尚更でしょう。
そして残念ながら、負けたり、間違ったり、ルールに反してしまったり、あるいはエキセントリックだったりすると、ネガティブなレッテルを張られることもあるはずです。
「あいつはダメな奴」
「バカだな」
「ヘンな奴」
ダメもバカもヘンも、これといった具体性のない印象としての言葉ですが、それだけに子供にとっては辛いものです。
また、年齢と共に相手を否定する言葉は次第に巧みになってきたり、優劣の感覚も増してきますので、「正しくて優れた自分・私たち」と「悪くて劣等な自分・私たち」という風に二極化したりもします。
優越感と劣等感
きっとこの本質は大人になっても残っているので、時に誰かを否定してしまうのです。
「彼は、仕事が遅い」
「彼女は、闇を抱えている」
「彼は、私をナメている」
「彼女は、自分を避けている」
どれも同じことで、人は自分と他者を比較し、主観的に物事を意味付けます。
差別や偏見を無くそうという運動が活発であることが何よりもそれを表していますが、社会からこれらが一掃されると期待する方が非現実的ではないでしょうか。
そして、何をどのように意味付けるかは個人の自由ですから、どんなにあなたが努力しても否定されることはあるかもしれません。
アドラーの個人心理学
そんな世情に一石を投じるかのように、「嫌われる勇気」という本がベストセラーになり、ドラマ化までしました。
「他人から認められたい」という承認欲求を捨て、誰かの期待に応えようとして不自由に生きるのではなく、「例え人に嫌われても構わない」という勇気を持つことを提案しています。
これは、アルフレッド・アドラーが作った個人心理学をまとめたものです。
アドラーは、いくつもの斬新な理論を発表しています。
「トラウマなど存在しない」「目的に向かってそうしているだけ」
人が怖いというトラウマで教室に入れない…、それは、学校を休んで家に居たいという目的があるから。
「性格などというものは存在しない」「選択したもの(ライフスタイル)があるだけ」
活発とか消極的とか言われるが、何もかも自分で選んだものであり、それを言い訳にして逃げようとしている嘘。本当は、いつでも選びなおすことが出来る。
「すべての悩みは人間関係だ」「優劣の比較、勝ち負け、調和性に苦しんでいるだけ」
仕事も家庭も、組織も人間の集合体に過ぎず、そこでの調和に悩みの解決策がある。
など、とても画期的な提言をしたことで、自己啓発の父とまで呼ばれる人物です。
恥の文化
嫌われることも避けたいものの一つですが、日本は古くから「恥の文化」と言われる程、他者からの視線や周囲との関係性に配慮することを美徳としてきました。
「恥を知れ!」とか、「恥を忍んで」、「そんなことをすると人に笑われるよ」とかもその一つです。
28年ものグアムでのサバイバル生活から帰還した横井庄一軍曹の「恥ずかしながら帰って参りました」も、当時の流行語になりました。
恥の対義語的なものとして「誇り」があります。
英語にすればプライド(Pride)でしょうか。
そして、プライドと恥は密接に関わっています。
プライドが高ければ高いほど、恥をかくことを避けようとするからです。
「嫌われる」というのは相手に対して危害や迷惑をかけるなど、何らかの不利益を負わせた際に起こるものですが、「恥をかく」というのは、もっと日常的に広範囲で起こります。
電車で偶然に出会った人を「嫌う」ということはほとんどないと思いますが、その人がケチャップの染みをシャツに付けていたら、「恥ずかしい」と感じることはあるでしょう。
それぐらい、恥は日常的に起こる感覚です。
そして、普通に暮らしていて、ちょっとした失敗やミス、些細な間違いや勘違いなどを回避することは至難の業です。
それにも関わらず、
「絶対に笑われたくない!」
「バカにされたくない!」
「見下されたくない!」
プライドと自己防衛は背中合わせで、高ければ高いほどこのように恥をかくことを過剰に怖れるようになってしまいます。
しかし、そういう態度こそが格好の餌食になってしまうことが想像できるかと思います。
「あいつ、何なの?」
「ちょっと変な人…」
若者だと、
(軽蔑の眼差しで)「ヤバーい、ありえない!」
(あざ笑うかのように)「超ウケる!」
人の目を気にし過ぎていると、逆にそれが目立ってこういったループにはまってしまいがちです。
そして、実はこういう人に限って、口では「人にどう思われても気にしないぞ」というポリシーを持っていたりするものです。
それもプライドなのかも知れませんが、やはりそこに素直に“弱い部分や負けを認める”という強さがあると、かなり生きやすくなると思います。
課題の分離
アドラーは、ミスや失敗を認めたうえで課題を分離せよといいます。
それは、「否定してくる相手」の課題と、「ミスをしてしまった自分」との課題を別に考えるということです。
課題の対象者は、その行動によって最終的な責任を負うものは誰か?ということで決まります。
➀他人を否定する → 次の行動 → その後の結果。この繰り返しの先に、人生がどうなっているかは本人次第。
②ミスをしてしまった → 次の行動 → その後の結果。
この場合、自分はミスをしてしまった側ですから、今後自分で最善を尽くせば良いだけのことです。
落ち込んで現実逃避する、というのも一つの選択ですが、「悪く言わないで!」「否定しないで」という行為は、相手の課題に足を突っ込んで干渉していることになります。
相手にも、あなたを否定する自由と権利があるからです。
ニートも、非行も、引き籠りも、親がどれだけ愛情で干渉したところで、逆に当事者にはそれを貫く権利があり、同時に、それを選んだ本人が全責任を負わねばならないということです。
どんな時も、自由とは大きな責任を負うことだと言えます。
「辛い経験をして…、大きいトラウマがあって…」
「親から愛してもらえなくて…。毒親に育てられて…」
つまり、自分は被害者なのだ。〇〇な性格のせいなのだ。という選択をしている状態ですが、これに対しても様々な反応が起こるでしょう。
同情されたり、可哀想だと思われたり、避けられたり、優しく接してくれたり…。しかしそれもやはりそれぞれの選択したものでしかありませんし、暗に何らかのメッセージを伝えてしまいかねません。
「理解して」
「優しく接して」
「温かく見守って」
これらも、こちらの身勝手な押しつけであり、相手にはあなたにどのように接しても良いという自由があります。
いかなる時も、このような権利は平等にあるので、決して侵害することは許されないのです。
自由と平等は保証された権利です。
社会に出ると、それは理想論だったのかと思うこともあるかも知れませんが…、一応表面上はそうなっています。
逆に、そんな風に扱われたいとすれば、何をすればいいのかを理解することではないでしょうか。
遺伝や環境は理由にならない
アドラーは、人格を形成するうえで「遺伝や環境、経験」というものは、家を作る上での材料に過ぎないと説明しています。
同じ材料でも、同じ家が建つとは限らず、実際は自分で自由に設計していくことが出来るのです。
過酷な人生を生き、それを糧とした多くの偉人たちはその何よりの証明です。
「何かが身に起こる」 → 「意味付ける」 → 「行動」
この意味付けの時点で、その後の行動が決まってきます。
言い訳、逃げ、争い、攻撃、謝罪、学習、努力、許容、感謝、友好…。
実際には多くの選択肢が目の前に広がっています。
何を選ぶのか。
どう行動するのか。
そして、変えるのであれば、
何をやめるのか。
課題は決して誰にも代わることのできないものであり、その人の選択次第なのです。
恥をかく勇気
尊敬している芸人の明石家さんまさんが、以前こう語っていました。
「俺は、絶対落ち込まないの。
落ち込む人っていうのは、自分のこと過大評価しすぎやねん。
過大評価しているから、うまくいかなくなると落ち込むのよ。
人間なんて、今日できたこと、やったことがすべてやねん。」
客が笑ってくれるか笑わないか、自分がどう評価されるかなどは考えない。それは客の課題。
芸を精一杯に磨き、舞台に立つだけ。それは自分の課題。
学校や社会に溶け込み、自分らしく学び成長すること。それは子供の課題。
子供に信頼され、どんな時でも力になれること。それは親の課題。
芸人さんというのは、あえて間違ったこと(ボケ)や、ユニークでバカげたことをして笑わせてくれます。
ある種、自ら「恥ずかしい」とされることをして、それで人を笑顔にするのが仕事です。
文化的に言う「恥」とは全く違うものではありますが、彼らにとっては、人を笑わせるためにはどんな自虐的で愚かしいことでも平気で出来るのだと思います。
「笑われている」のではなく、「笑わせている」。
それが彼らのプライドなのでしょう。
ダメで、バカで、ヘンな事を芸術の域に押し上げているかの様です。
(お腹を抱えながら、楽しそうに)「ヤバーい、ありえない!」
(満面の笑顔で拍手しながら)「超ウケる!」
芸を身に付けて笑わせる → 人気者になる → 収入を得る → 家族や仲間を作り幸せに暮らす。
ただ観客として笑っている → ファンとなって度々チケット代を払う → 一人で寂しく暮らす。
やはり、課題は分離され自由が保障されています。
道化して、かく恥を誇りとする。
芸人さんには本当に頭が下がります。
でも、自分では辛いときは心理相談を。
記事を書いた人 Wrote this article
Kondo
短期間で改善を起こす、ブリーフ・サイコセラピー派の心理師。 あらゆる問題の解決事例を持ち、超合理的に結果に導く。 臨床から産業、教育分野まで、幅広い実践経験を持つ。 専門家からの相談を受けるマスター・カウンセラーである。