ゲシュタルト・セラピーとは ~ターミナル(終末期)ケア編

ゲシュタルト・セラピーとは ~ターミナル(終末期)ケア編
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「今、ここ」で何が起きているのか。

過去に受けた心理療法の研修で、私は今でも忘れることのできない、一瞬の奇跡のような光景を目撃しました。
会場には40〜50名ほどの参加者が集まり、静かで張り詰めた熱気が漂っていました。
その研修の講師は、かつて海外で伝説的な精神科医エリック・マーカス氏(※フリッツ・パールズの流れを汲むゲシュタルト・セラピーの第一人者)に直接師事した方です。

「何か、テーマがある方はいますか?」

先生が静かに会場全体へ問いかけたとき、一人の女性がすっと手を挙げました。





静寂を切り裂く、不躾な問い




彼女の姿は、あまりにも「普通」でした。
30代半ばくらいで、眼鏡をかけたどこか理知的な印象であり、一見すると極めて健康的な女性に見えました。
彼女は周囲に気を配るように、どこか気丈で淡々とした口調で切り出しました。

「私は……ある病気なんです」

その瞬間、先生は一切の躊躇なく、すかさずこう問いかけました。

「ガンですか?」

会場の空気が一瞬で凍りつきました。
参加者が固まり、かたずをのんで二人のやり取りを見守っています。
なぜ、初対面の、しかも大勢の人が見ている前で、これほどセンシティブで衝撃的な問いを投げかけられるのか。
外見からは病気など一切感じさせない彼女に対し、なぜそんな残酷にも思える言葉を直接ぶつけるのか。
当時の私にはあまりにも不躾で、大胆すぎる問いに思えました。

しかし、これはターミナルケア(終末期ケア)における最も重要なアプローチ――「腫れ物に触るような気遣いを捨て、その人が抱える絶望の核心に逃げずに向き合う」という、セラピストの覚悟の問いかけだったのです。

一見、健康に見える彼女だからこそ「二重の孤独」を抱えていたのかもしれません。
「元気そうだね」と言われるたびに膨らむ内側の絶望とのギャップや、「病人らしく」振る舞えないがゆえに誰にも弱音を吐けず、一人で重い鎧をまとい続けていたのではないでしょうか。
先生は、彼女の声の微かな震えや纏っている命の切迫感から、一人で必死に隠そうとしていた「死の影」を一瞬で見抜き、その鎧を優しく降ろしにかかったかのようでした。

ここでは、「あるがままの自分で良い。」

そんな場であるという宣言であり、約束です。




ジャッジしないという、「安全な器」








先生は、彼女が告白した境遇に対して、過剰になだめることも、安易な慰めの言葉をかけることもしませんでした。ただ静かに一通り話を聞いた後、周囲の参加者に向かってこう告げました。

「では、皆さんは彼女を取り囲むように円になってください」

言われた通り、参加者は大きな輪となって、彼女を包み込みます。
「この場所でのあなたの言葉、言いたいことを、順番にお一人お一人の方の前で仰ってください。それを聞いた皆さんは、何も返答せずに受け止めてください。では、どうぞ」

最初の人の前に立った彼女は、戸惑いながら言葉を絞り出しました。

「私は…、今、あなたの前に立っています…」

目の前の参加者は、ただ静かにうなずきます。そして、女性は 次の人へ移動します。
「えっと…私は、緊張しています」
また静かにうなずく参加者。 さらに次の人へ。
「いま私は、少し恥ずかしい気持ちです」
受け止める相手が、少しやわらかく微笑みました。彼女も照れ笑いをします。

最初は「目の前に立っている」「緊張している」といった表面的な言葉でした。しかし、誰もが一切のアドバイスや評価をせず、ただ全身で自分の言葉を「受け止めてくれる」――その圧倒的な安全と承認の輪の中で、彼女の防衛本能(鎧)が少しずつ解きほぐされてくようでした。




溢れ出す心の叫び




何人目かの前に立ち、相手の温かい眼差しと向き合ったとき、彼女の口からついにその言葉が発せられました。

「私は、ガンです」
その瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れ出しました。
これまで一人で抱え込んできた重荷を一つずつ下ろすように、彼女の言葉は自身の内側深くへと繋がっていきます。

「私は、とても辛いです……」
声を震わせながら、次の人の前へ移動します。
「両親より先に死んでしまうことが……母を悲しませてしまうことが、本当に辛いです」
「私は、死にたくない……」
涙で顔を濡らしながら、自分の本当の叫びを隠さずに言葉にしていきます。

「もっと色々なことをしてみたかった……」
「いろんな国に行ってみたかった……」
「もっと、やりたかったことがたくさんありました……」

次々と発せられる言葉は、悲願であり、もはや叶うことのない儚い夢。

あちこちから、女性参加者のすすり泣きが聞こえます。
会場を見渡すと、そこには忘れることのできない光景が広がっていました。
その中で、コンサル業界の経営者で一見して冷静沈着そのものの男性が、ボロボロと涙を流しています。
日頃は常に合理性と判断力を求められるような、決して弱味を見せることのないビジネスマンたちもまた、涙をぬぐうことを忘れ、ただ一心に彼女に対峙していました。

自分の命と真っ向から向き合う彼女の姿に触れ、そこにいた全員が「自分自身との共鳴」を感じていたのだと思います。
こういった場では、社会的立場も、肩書も、日頃身につけている仮面も、すべて剥ぎ取られていきます。
誰もが「彼女を労いたい。力になりたい」という思いでいたはずが、惜しげもなく思いをさらけ出す彼女によって、むしろ「自分たちの方が救われ、生かされている」という強烈な気づきを与えられているようでした。

ターミナルケアにおいて最も必要なのは、病気の治療だけではありません。
「自分の真実の感情を偽りなく表現し、それを誰かに丸ごと受け止められること」、そして「その人の存在そのものが、周囲の人間を救っていく」というものなのだと、目の前の光景が語っていました。




「私は、生きています!」








そして、頬を濡らしながら、いよいよ彼女が私の前に立ちました。
まっすぐに私を見つめ、絞り出すような力強い声で言いました。

「私は、生きています!」

その言葉を聞いた瞬間、全身が雷に打たれました。

彼女は決して「死に向かう哀れな人」ではありません。
過去を悔やむでもなく、未来に絶望するのでもなく、「今、この瞬間に自分は確かに生きている」という圧倒的な事実に立ち返ったかのようです。
その顔には先ほどまでの迷いや孤独の影はなく、一人の人間としての尊厳と輝きが満ちあふれていました。









終末期ケアとしての「今、ここ(Here and Now)」




ゲシュタルト・セラピーの根幹である「今、ここ」という言葉。 それは、決して単なる心理学の概念ではありません。
「残された時間がどれだけあるか」という未来の恐怖に支配されそうな人が、自分の足で立ち上がり、残された命を「今、この瞬間に生ききる」ための、魂の救済プロセスです。

人は、誰かに自分の存在を丸ごと受け止められたとき、どれほど深い絶望の中にいても、自身の内側にある生命力を取り戻すことができます。そしてその命の輝きは、周囲で生きる人々の魂をも揺さぶり、救いを与えてくれます。

彼女が放った「私は、生きています!」というあの叫びは、死に向かいながらも生命を最大に輝かせた、人間の尊厳そのものでした。

あの研修から長い年月が経った今でも、彼女の声は私の中で生きる意味を問い続けてくれています。




※個人が特定できないよう、情報を修正しています。





生きる意味が疑問なら、心理相談へ

記事を書いた人 Wrote this article

Kondo

短期間で改善を起こす、ブリーフ・サイコセラピー派の心理師。 あらゆる問題の解決事例を持ち、超合理的に結果に導く。 臨床から産業、教育分野まで、幅広い実践経験を持つ。 専門家からの相談を受けるマスター・カウンセラーである。

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