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エリート学生の死
1903年(明治36年)5月22日
16歳の少年が、栃木県日光の華厳滝に身を投じました。
藤村操というこの学生は、事業家一家の長男として生まれ、名門の開成中学から1年飛び級した後、現東大と千葉大の前身である第一高等学校に入学したという優秀な学生でした。
当時の一高生というのは、今の高校生とは比べ物にならないような憧れや尊敬の対象であり、そんな人物が飛び込んだ現場から、壮絶な遺書が発見されました。
樹木の木肌に刻み付けられたその一文には、「巌頭之感(がんとうのかん)」というタイトルが付けられており、それが当時の社会やマスコミに大きな波紋を広げたのです。
巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを
現代語訳すると、
岩上にて想う
悠々と広大なる天地。遥かに続く時の流れ。
五尺(151cm)の小さな体で、私はこの大きさを測ろうとした。
ホレーショ(ハムレットの登場人物)の哲学には、結局は何のオーソリティ(権威)的価値も無い。
万物の真相は、ただひと言で言い尽くせる。「不可解」と。
私はこの恨めしさを抱いて煩悶し、ついに死を決するに至った。
すでにこの岩の上に立つに及び、胸中には何の不安も無い。
初めて知る。大いなる悲観は大いなる楽観に一致すると。
五月病という言葉がありますが、奇しくも藤村操が亡くなったのも五月二十二日でした。
努力して学問を修め、立派に出世することが美徳とされた時代。その理想的な道を歩んでいたスーパーエリートの自死は非常にセンセーショナルに扱われ、同じ現場で彼の後を追う者や真似てしまう者が数百名にも上りました。
ウェルテル効果;若者の死因一位は自死
最近でも、著名人の自死によって同じような現象が起こっているので、皆さんの記憶にも新しいのではないでしょうか。
多くの憧れや賞賛を受ける芸能人や文化人などの死は、いつの時代もニュースとして大きく扱われます。
そして、その影響を受けて自殺者が増えることを「ウェルテル効果」と言います。
ウェルテルとは、ゲーテのベストセラー「若きウェルテルの悩み」の主人公で、物語の最後で自殺してしまうのですが、当時も連鎖的な自殺者が増えて社会問題になったことに由来しています。
よほど事情があってのことだと思いますが、多くの才能や魅力があったにも関わらず、彼らは死を選んでしまいました。
それを示すかのように、若く活気に満ちているはずの日本の十代から三十代の死因の一位は自殺です。
更に、働き盛りの四十代から五十代においても、二~三位に入っています。
若い世代も中高年も、病気でも事故でもなく、実は多くの人たちが自分自身で命を絶っているのが現状なのです。
年間約三万人に及ぶ自死率は、銃社会アメリカの約二倍という謎の現象を引き起こしています。
WHOによれば、世界中の十代から二十代全体の死因を見ても、自死は二番目だといいます。
この数は、あくまでも遺書や状況から確認できた数であり、疑いのあるものや未遂までを入れると更に数十倍になるともいわれています。
希死念慮、自殺念慮とは
死を願う気持ちを「希死念慮」と呼び、自分で命を絶ちたいと考える事を「自殺念慮」と呼びます。
しかし、「死にたい」とか「いなくなりたい」という言葉が、実際の行動に移ると当然危険度は増します。
それも、目に留まるノートや壁などに「死んでやる」などと書いていたり、軽めの自傷行為、誰か目の前で首吊りを連想させる紐を見せたり、ベランダから飛び降りる行動を見せるなどは、ある種の表現だったりもします。
他者に対して、「それくらい、自分は苦しいんだ」と提示する意味は必ずあり、それを仄めかすことで、何らかのメリットを得られることがあるからです。
(心配でしょ?だから、嫌な学校を休ませて。優しく接して。福祉を下さい。)
この段階だったら、まだ解決方法は導き出せますが、より行動が具体化していくと自死へと繋がってしまいます。
中二病;多面的な背景
希死念慮の理由は様々で、一説には経済的な問題や健康、仕事の悩みなどと言われていますが、これらの統計がどのように調査されたのかが知れず、周囲の声などの確証性も疑わしいものがあります。
世の中を悲観的に見ていたり、死の願望や美化する傾向がある方々には芸術家タイプが多く、実際に数々の文豪たちが自死しています。
太宰治(享年39、入水心中)
芥川龍之介(享年35、服毒自殺)
川端康成(享年72、ガス自殺)
三島由紀夫(享年45、割腹自決)
有島武郎(享年45、心中)
金子みすゞ(享年26、睡眠薬)
物事を真剣に深く考える人は病的な側面が伴い、「今さえ楽しければそれでいい」という能天気な人だと、案外気楽に生きられるのかも知れません。
現在でも、ネガティブなテーマを扱う作品やカルチャーを好んでいると、「中二病」とか「病んでいる」と言われて軽蔑されるようです。
藤村氏のように「万物の真相」を探求するのも立派ですし、何が好きでも本人の自由なのですが、世間の認識はそうもいきません。
自分は、こうだと信じている。これが良いと思っている、という価値観があっても、それが少数派だったりして否定されたと感じれば当然辛くなるものです。
そして、孤立したような心境の中で生き辛さを感じ、世を呪ったり、自分の存在意義そのものを疑うのも無理はありません。
このように、自分で「誰にも理解されていない・必要とされていない」と思っている人たちには、希死念慮傾向が強いと感じます。
自死した人を哀れむ人はいるでしょう。その背景に思いを寄せ、悼むこともあるでしょう。
しかし、自分に直接の関わりが無くても、悲惨な事件を見聞きすれば辛く悲しい気持ちにさせられるだけです。
つまり、ネガティブな影響を与えるだけの迷惑行為だという意見にも一理あるかも知れません。
もし、あなたの家の周囲で、見ず知らずの人が首を吊っていて、「縁起の悪い地域」という噂が立ったらどんな気分になるでしょう。
乗っていた電車に人が飛び込んで、大切な約束が破棄されたり、大切な人が飛び降り自殺に巻き込まれたらどうでしょうか。
自殺が多発する富士山の青木ヶ原樹海に、「自宅で死ね」「地元で死ね」という看板が立っているそうですが、風評被害を受けるだけでなく、その捜索や処理に税金を使われる地元の方々からすれば理解できる言葉かも知れません。
まして、後追いを発生させるなど断じて許されないことではないでしょうか。
現在の自死社会を子供たちに伝えることは、「大人になること」への印象をネガティブに感じさせてしまいかねません。
藤村氏も、なぜあのような文章をわざわざ刻む必要があったのか…、そこに彼の心理が現れていると思います。
とかく、自死は、受け入れてくれなかった社会や理解してくれなかった者への「復讐」の側面が強いと感じます。
MRI:コミュニケーション派
いずれにせよ、自死に決定的な理由というものは無く、逆に、決定的な解決策というものもありません。
かくいう私も、若い頃は何度もその想像をしていました。
理由は、一言でいうと生きていても辛いことばかりで特に有意義ではなかったからです。
逆に、このような考えを持ったことがないという方が不思議なくらいでした。
ただでさえつまらない毎日なのに、そこに嫌なことでも重なったら…。
面白くもないことに、なぜ懸命に努力しなければならないのか?あるいは、どうすれば生きることが楽しくなるのか?
当時の私に、その答えを教えてくれる人はいませんでした。
しかし、後に書物の中に答えが見つかりました。
そういうと、その本のタイトルが知りたくなると思いますが、特にこれといったものではなく、沢山読んでみて何となく気付いたという感じです。
私の場合、読む物に偏りがあったと思いますが、中でも短期療法の考え方に触れたのは大きな収穫でした。
人の全ての言動は、コミュニケーションである
短期療法の流派の中でも、MRIは「コミュニケーション派」と呼ばれています。
人の全ての行動はコミュニケーションである、という理論に基づいているのですが、それはつまり、笑顔も、ため息も、眉間のしわも、あくびも、全てが何らかの情報(印象)や暗示として周囲に影響を与えるということです。
そして、それが様々に意味付けされ、「好かれた、嫌われた、否定された、無視された」などという認識になっていきます。
明確ではない、細やかな「非言語」による膨大な情報を、このように私たちは無意識にやり取りしているのです。
それに気付かずに生活していた私は、なぜ嫌なことが起こるのかを突き止めた気がしました。
当時の私の態度や表情、行動から発せられているメッセージは、「近寄らないで。構わないで。話し掛けないで」といったものでした。
そして、当然それが現実化していたのです。
自分がされたら嬉しいことを他人にする
では、良いコミュニケーションの具体的な内容とは何か?
マズローによれば、人は皆、誰かに認められたい、理解されたい、大切にされたいと願うものです。
その説に則ってみれば、まずは、自分を「理解してほしい」と身勝手に願うのではなく、「相手を理解しよう」と関心を向けることが求められます。
そして、何か相手にとってメリットとなる「手助けや親切などのポジティブな働きかけ」が必要です。
これは、簡単なようで、苦手な人にとっては非常に難しいものかも知れません。
今は自分の事で精一杯で、そんな気分が起きない人もいるでしょう。
しかし、ただ存在しているだけの隣人を大切に思えるでしょうか。
あるいは、あなたがどんなに苦しそうでも、困っていても、残念ながら放っておく人はいます。
でも、恩や感謝があったりすれば、かなり違うと思いませんか。
ホスピタリティが充分でない人たちは、自分に何もしてくれなかった人に決して手を差し伸べてはくれないのです。
コミュニケーションを工夫すれば、生きるのが楽しくなる可能性がある。
現状からも、私の仮説は正しかったと思います。
最も大切なことは、決定的な自死の理由など無く、逆に何らかの解決策は決定的に存在するという事です。
一人で解決策が見つけられない時は、ぜひ心理相談を。
記事を書いた人 Wrote this article
Kondo
短期間で改善を起こす、ブリーフ・サイコセラピー派の心理師。 あらゆる問題の解決事例を持ち、超合理的に結果に導く。 臨床から産業、教育分野まで、幅広い実践経験を持つ。 専門家からの相談を受けるマスター・カウンセラーである。